仏陀の科学
仏教者と科学者のための21日間のリトリート
ティック・ナット・ハン
仏教では、日常的な真理(samvrti-satya)と絶対的な真理(paramartha-satya)という二つの真理が存在するとされている。日常的な真理という枠組みで議論されるのは、存在と非存在、生と死、来と往、内と外、一と多などといった概念である。この枠組みに基づいた仏教の教義と実践は、苦を軽減し、人々の生活に調和と幸福をもたらす手助けとなる。これに対し、絶対的な真理という枠組みで展開される教義は、存在と非存在、生と死、来と往、内と外、一と多などといった概念を超越したものである。そこでの洞察に基づいた教義と実践は求道者を差別や恐怖から解放し、究極の実態である nirvanaに到達する手助けとなる。仏教者からすれば、これら二つの真理は対立するものではなく、双方の枠組みを適宜に援用してよいことになっている。
古典科学は、ニュートンの古典力学理論に見られるように、物体は時間と空間という座標軸において確固とした位置づけができる個別の存在であるという日常的な経験を反映した枠組みに基づいて構築されている。量子力学は原子よりも小さい規模での自然界の働きを理解する枠組みを提供するが、そこで議論される現象は古典力学とは全く異なったものである。というのは、量子力学の世界では何も存在しない空虚な空間というものはありえず、物体の位置と速度は同時に正確に測定できないからである。基礎物質は存在と非存在の間を行き来し、現実に存在するものではなく「存在する傾向」を有するものだとされる。
仏教での真理の枠組みからすると、古典科学は日常的な真理を反映し、量子力学は存在と非存在、内と外、自と他といった概念を除去しようと努めているという意味で絶対的な真理の発見に近づいているように思われる。古典科学と量子力学での発見がともに実証と生活の場での応用が可能であるということからすると、科学者も二つの真理の間の関係の発見を目指しているのだと言えよう。
科学においては、どの理論も科学者の世界で認められるためには幾つかの方法で実証される必要がある。仏陀も、どの師によるどのような教義や洞察もそれを真理として受け入れる前に自らの経験による実証が必要であると、カラマ・スートラで教えている。真の洞察(正見)は、人々を迷いから解放し、安らぎと幸せをもたらす力をもっている。科学における発見も洞察であり、テクノロジーのためだけではなく、生活の質の向上と幸せへと導く日常的な行動のためにも応用することができる。この意味で、仏教者と科学者はそれぞれの探求と実践の方法を共有することにより、お互いの洞察と経験から学ぶことができるのである。
マインドフルネス(正念)と集中(正定)という実践は常に洞察をもたらすものであり、仏教者、科学者ともに有用な実践である。仏陀や菩薩といった真理に目覚めた実践者たちが伝える洞察は、仏教実践者にも科学者にもひらめきと支持を与える。これに対し科学的実証は、仏教実践者が古代の師から受け継いだ洞察のよりよき理解とさらなる確信をもつことに役立つ。21世紀においては、仏教者と科学者は人類すべてのためにより深い洞察の探求を推進し、この世界に存在する差別、恐怖、怒り、絶望を減らすことで、さらに多くの人々に解放をもたらすことができるものと確信する。
2012年6月1日から21日にかけてフランス南部のプラム・ヴィレッジという美しい環境のなかで行われるリトリートでは、仏教者と科学者がともに座禅をし、ともに歩き、お互いの経験と洞察を共有することになっている。マインドフルネスと集中の実践は科学者がさらに優れた科学者になるのに役立ち、この意味で仏教はこれからの探求と発見の方向を示唆することで科学者に創造的刺激を与えるという役割を果たすことができる。これに対し仏教者は、科学による洞察がどのようにすれば技術の発展と物質的な安楽の向上だけでなく、個人・家族・社会の苦しみの軽減にも役立つものとなりうるかを探求することができる。良き科学と良き仏教は世界の福祉に大いに貢献できるということを発見することで、このリトリートは科学と仏教という二つの伝統で真理を探究するものに多くの喜びと自信をもたらすことになろう。
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